
今から30年くらい前は「不登校」ではなく「登校拒否」と呼ばれていた時代だった。
始まりははっきりしないが、「もう、こんなことはやめよう」と心の底で決めた瞬間だけははっきりと覚えている。
季節は次の春へと準備を始めている小学1年生の終わりころ。私は学校に行きたがらない娘を車に乗せ小学校へ向かっていた。泣きじゃくり嫌がる娘に学校は、「とにかく連れてきてください」の一点張り。先生に娘を引き渡し、私も泣きながら家に帰る。そんな日々が続いた。
もう疲れた・・・。何のためにこんなことをしなければならないのだろう。
校長室では「一人っ子で甘やかすから、こういうことになるのだ」と、まるで一人しか子どもを産まなかったからだと受け取れる言葉を言われた。
なぜ、こんな理不尽な想いをしなければならないのだろうか。学校は、私も娘も責めるばかり、学校に行かないことがそんなにも悪い事なのだろうか? 私の心も娘の心もずたずたになり、学校への信頼はすっかり消えてしまった。そして私は「この子は私が守る。もう、学校へは行かせない。」と決めた。
とは言え、私たちはすっかり疲れ切っていたので、まずは家に引きこもった。引きこもることは、じつはとても大切なことで、自分を取り戻す時間になることをその時に知った。傷が癒えてくると少しずつエネルギーがチャージされる。エネルギーが満たされてくると少し動けるようになる。
平日の昼間は人目が気になって出かけられなかったが、やがて二人で大好きな図書館へいけるようになる。そこで出会った司書さんたちは優しく、一緒に本を選んでくれて、絵本には同じ題名でも絵を描く人や訳す人によって、印象が変わることなどを教えてもらったり、図書館の絵本作りのワークショップに誘ってもらったりした。
空いている児童センターでは、一輪車が乗り放題で、アッと言う間に娘は一輪車を自由自在に操れるようになった。夫が平日に休みを取り、スキー場や旅行にも3人でよく出かけた。学校には行かないが、ピアノ教室には休まず通った。

学校へ行かないと決めた日々は私たちにとって穏やかで自由だった。
けれど、不登校は、私に沢山の問を投げかけてきた。学校の先生方とのコミュニケーションの難しさや、学校にしか学習機会がないこと、学校へ行かないという事へのまなざしの偏り。その問いを解くために、私は色々学び始めた。
ジェンダー、心理学、ファシリテーションやコーチング…。これらの学びは私の視点を大きく広げてくれた。そのなかで出会った人たちが疲れ切った私に力をくれた。
学びは、自分や娘を守る武器になった。そして、かつて私のように悩んだり、エネルギーが枯れてしまった人たちに、ほんの少しだが寄り添えることができるようにもなり、それが今の私の仕事につながった。
多様性を認めあう時代と言われるが、「世間」や「普通」という枠から外れて生きるのは、摩擦が大きく、心が疲れることもある。でも、「なぜ?」「私はどうしたい?」と学びながら問う事で私自身の背骨がしゃんとして生きやすくなったように思う。
私の座右の銘の一つに「人生無駄なことは無い」という言葉がある。人生のあらゆる出来事、たとえそれが失敗や困難な経験であっても、それは無駄ではなく、学びや成長の機会として捉え、未来の自分にとって価値あるものに変わるという言葉だと思っている。
娘の不登校は、60歳を過ぎた私に「なかなか、いいじゃない、私の人生」と思わせてくれた。そして40歳間近の娘は、自分のやりたいことをやり通しながら生きている。魔女の宅急便のキキの言葉を借りれば「落ち込んだりもしたけれど、私は元気です。」そんなふうに笑いながら、軽やかに楽しそうに暮らしている。
2024年度の不登校の小中学生が県内では5829人いう記事を読みながらふとあの頃を思い出した。

* BSNラジオ 土曜日午前10時「立石勇生 SUNNY SIDE」の オープニングナンバーの後に「はぐくむコラム」をお伝えしています。11月29日は、新潟市在住 にいがた子育ちステイション理事長 /子育て支援ファシリテーターの立松有美さんです。お楽しみに!
