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“国境の町”稚内で平和について考えた

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8月下旬、北海道に滞在してきました。主な目的は、「最北」の街・稚内にある、私の前任校・育英館大学での授業でした。その後、敬和学園大学のゼミ生たちがやってきて、酪農の町豊富町での戦後開拓、江別ではさらに「越後村」の映像制作に取り組みました。結果的に10日ほど、新潟を離れて、北海道に滞在したことになります。いずれまた、取材成果をお伝えできたらと思います。

2年前の北海道研修(2021年8月 北海道で見つけた新潟県人の足跡)

私はかつて、稚内に6年間住んでいましたので、この街のことは、だいたいわかっているつもりです。ただ、ロシアのウクライナ侵攻が長期化していたことで、今回、「平和」について新しい視点で稚内を見ることとなりました。今回は、稚内の歴史を振り返りつつ、考えてみたいと思います。新潟空港からは稚内空港までは、新千歳空港で飛行機を乗り継ぐ必要があります。ご縁のない方も多いかと思いますが、「『最北』の街まで車やバイクで行ったことがあるよ」という方もいると期待して、書いてみます。

日露の緊張関係と「樺太」への思いを背負った街
稚内は、北方領土を除くと、日本でもっとも北にある「最北」の街です。かつて南半分が日本の領土であった、対岸の樺太・サハリンとの関係や、さまざまな国際関係に翻弄され、同時にそれに伴って発展してきました。
江戸時代、この地域では、東北諸藩による越冬警備や、間宮林蔵らによる樺太探検が行われます。柏崎出身の松田伝十郎も、樺太を探検した先人の一人です。いずれもロシアの南下に対する警戒として行われたといえるでしょう。
宗谷岬にある、旧海軍望楼は、明治期、日露戦争に備えて設置されています。この望楼は、ロシアのバルチック艦隊の動きを監視していました。

海軍望楼

戦争ののち、日本が樺太の南半分を領有したことは、稚内の発展の契機となりました。北海道の他地域からも遠く離れた稚内ですが、1923年に樺太の大泊(現コルサコフ)との間に航路「稚泊航路」が開設され、これに合わせるように鉄道の宗谷線も開通します。旭川や札幌から、200~300キロと遠く離れたこの街は、樺太へ人々を運ぶための拠点として、インフラが整備され、発展していくことになります。

JR稚内駅

1945年8月のソ連侵攻により、樺太では、多くの住民が命を落としました。その後、樺太はソ連に占領され多くの人々が北海道に引き揚げてくるのですが、引揚者のうちかなりの数の人が、稚内に定住しました。このときの人口増加により、1949年、稚内は「町」から「市」になります。

戦後、東西冷戦により日ソの交流がほぼ途絶える中で、稚内公園には氷雪の門などのモニュメントが設置されます。また1983年9月1日には、稚内から近いモネロン島付近で、大韓航空機撃墜事件が起こり、その結果、宗谷岬には、「祈りの塔」というモニュメントが建てられます。
稚内は、樺太の人々の望郷の地として、また、撃墜事件の犠牲者を悼む場所として、多くの人々にとって特別な場所となりました。日露関係、樺太をめぐる歴史を、稚内は抱え込み、訪れる人々に平和の大切さを伝えているともいえます。

氷雪の門/祈りの塔

「過去」を乗り越えて開設したサハリン航路
冷戦終結後の1995年、稚内と樺太・サハリンを結ぶ航路が開設されました。かつての「稚泊航路」の終了は、ソ連の樺太への侵攻が原因であり、「サハリン航路」の開設には複雑な思いを抱く人もいたと思いますが、それを乗り越えてのチャレンジだったことでしょう。
しかしこの航路は、幾度かの挫折をくりかえしたのち、2019年に休止に追い込まれました。札幌などの大都市からユジノサハリンスクへの空路が開かれており、旅客数が伸び悩んでいたことは、想像に難くないところです。その後は、新型コロナウイルスの感染拡大、そしてロシアのウクライナ侵攻と続き、現在、再開の見通しはまったく見えなくなっています。再び閉ざされた交流が、再開できる平和な時は、やってくるのでしょうか?宗谷岬から対岸のクリリオン岬までは43キロ。天気の良い日には島影が見えます。稚内から対岸に渡ることはできませんが、島影を眺めながら、平和を考える機会を持つことはできます。

新潟でも「対岸」との平和を祈りたい
新潟に戻ってきてすぐに、佐渡にいく機会がありました。晴天の夏の日、おだやかな海を進むフェリーは、平和そのものでした。新潟港にもかつて、朝鮮半島や大連への航路があり、終戦間際には、空襲によって被害がありました。新潟は、拉致問題が発生した場所でもあります。稚内のように異国の「対岸」は見えませんが、新潟の海にも歴史の痕跡があります。日本海に沈む夕日を眺めながら、新潟でも、「対岸」との平和を祈りたいと思います。

* BSNラジオ 土曜日午前10時「立石勇生 SUNNY SIDE」の オープニングナンバーの後に「はぐくむコラム」をお伝えしています。
9月16日は、新潟市在住 敬和学園大学人文学部国際文化学科教授の一戸信哉さんです。お楽しみに!

 

この記事のWRITER

一戸信哉(新潟市在住 敬和学園大学人文学部国際文化学科教授)

一戸信哉(新潟市在住 敬和学園大学人文学部国際文化学科教授)

青森県出身。早稲田大学法学部卒業後、(財)国際通信経済研究所で情報通信の未来像を研究。情報メディア論の教鞭を取りながら、サイバー犯罪・ネット社会のいじめ等を研究。学生向けSNSワークショップを展開。サイバー脅威対策協議会会長、いじめ対策等検討会議委員長などを歴任。現在:敬和学園大学人文学部国際文化学科教授。
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