SDGs de はぐくむコラム

お母さんのつくったトンボの標本だ!―標本を次世代に残す―

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夏休みの自由研究で「昆虫標本」を作ったことはありますか?
昆虫採集と標本づくりは、かつての夏休みの風物詩でした。ところが近年、こうした体験をする子どもたちは少なくなってきています。その背景には、自然の中で生きものにふれる機会の減少に加えて、標本づくりを教えられる大人や先生が減ってきているという事情があります。

標本はただ虫を捕まえて並べればできるものではありません。適切な処理や保管が必要であり、技術と知識が欠かせないのす。かつて私たちにその技を伝えてくれた地域の「虫博士」たちも高齢化が進み、技術の継承が難しくなりつつあります。

昆虫採集

自然系博物館では、地域の生物多様性や自然環境を紹介する際に、生物標本を活用しています。標本には、研究者やアマチュアの自然愛好家が丹精こめて作り、博物館に寄贈されたものも数多くあります。「森の学校」キョロロでは、十日町市松之山出身の「日本の昆虫採集の父」と呼ばれる志賀夘助氏の世界のチョウコレクションを常設展示しています。さらに、それ以外にも数十年にわたって集められた貴重な標本が、保管されています。これらの標本は、過去の自然環境や地域の生物多様性を物語る大切な記録です。

志賀夘助世界のチョウコレクション(常設展)

しかしながら、標本を保管・管理する博物館側には課題があります。標本を保管・管理するバックヤードスペースは無尽蔵にあるわけではありません。また限られた収蔵スペースに加え、全国的に博物館学芸員の人手が足りず、標本の適切な管理が難しくなってきている現状もあります。キョロロでも毎年、博物館実習生やインターンシップ生から協力してもらいながら、標本箱の防虫剤交換などの作業を行っています。地道で時間のかかる作業ですが、自然史資料の保存には欠かせない作業です。

そんな中、標本をデジタルアーカイブとして保存し、誰もがアクセスできるようにする取り組みも世界的に進められています。世界中の博物館や研究機関が参加する「地球規模生物多様性情報機構:GBIF(Global Biodiversity Information Facility)」では、標本データをオンラインで共有しています。当館でも、収蔵している4万点以上の昆虫標本の一部をこのGBIFに登録し、世界中の人が自由にアクセスできるようになっています。各地域で採集されたたった1匹の昆虫標本が、世界中の研究や教育に貢献することもあるのです。

キョロロでは、生物標本を教育普及に積極的に活用しています。里山の生物多様性をテーマとした展示では、実際の標本を多く用いて来館者が生きものに親しむきっかけを提供しています。ワークショップでは実際の標本を使って「標本の作り方」「名前の調べ方」を伝え、次世代に技術と興味をつないでいます。

昆虫標本を用いた企画展

標本づくり体験

そんなある日、展示室に立ち寄ったご家族からこんな声が聞こえてきました。「これ……お母さんのつくったトンボの標本だ!」

それは20年ほど前、当時小学生だった女の子が、お父さんと一緒に夏休みの自由研究として作ったトンボの標本でした。地元の川辺で採集されたトンボの種類が丁寧に並び、「2005年8月9日・十日町市松之山〇〇・採取者U・アオイトトンボ」と記されたラベルが添えられていました。寄贈を受けた後、現在は展示用に一部をピックアップして公開していた標本を、来館した息子さんが見て気づいたのです。

2005年に採集されたトンボの標本

標本には「いつ・どこで・だれが・なにを」採集したかを記録するラベルが欠かせません。ラベルの情報があることで、標本は単なる「モノ」から「記録」へと変わります。それは、ある場所に確かにその生きものがいたという証拠であり、地域の生物多様性の歴史を物語る貴重な手がかりとなるのです。そして、かつて母が作り残した標本が、時をこえて子どもの目にふれ、自然と向き合った記憶や思いが、ご家族の中で受け継がれる——そんなシーンを目撃した際、「標本を次世代に残す意味」の一つをあらためて実感しました。

近年では博物館に収蔵されてきた植物標本から種子を発芽させ、絶滅危惧種の保全に活かす研究が進められたり、収蔵されていた剥製が絶滅したニホンオオカミだったことを小学生が見抜いた例があったりと、博物館に収蔵されている生物標本から、新発見が続々と生まれています。

SDGs(持続可能な開発目標)では、「質の高い教育をみんなに」「陸の豊かさも守ろう」といった目標が掲げられています。標本を通じて自然を知り、記録し、伝えていくことは、まさにこれらの目標と重なります。博物館は、このような自然史資料を通して、過去と現在、そして未来をつなぐ場所でもあるのです。

20年前の夏、親子で自然の中で出会い、手にとって見つめ、記録した一匹のトンボ。かつての自由研究が、時をこえて子どもたちの学びのタネとなりました。その標本が、今度は別の子どもに自然の声を届け、新たな問いを生み出していきます。その標本は、今も展示室の中で「きみは何に気づき、どんなことを調べてみたい?」と次の子どもに問いかけているのかもしれません。

採集し、残された標本は、ただの記録ではなく、未来の学びを拓く扉でもあるのです。そしてその扉は、いまも静かに開かれ、学びのバトンがそっと手渡されていくのですね。

 

* BSNラジオ 土曜日午前10時「立石勇生 SUNNY SIDE」の オープニングナンバーの後に「はぐくむコラム」をお伝えしています。4月26日は、越後松之山「森の学校」キョロロ 学芸員の小林誠さんです。お楽しみに!

http://立石勇生 SUNNY SIDE | BSNラジオ | 2025/04/26/土 10:00-11:00 https://radiko.jp/share/?sid=BSN&t=20250426100000

この記事のWRITER

小林誠(十日町市在住 越後松之山「森の学校」キョロロ 学芸員)

小林誠(十日町市在住 越後松之山「森の学校」キョロロ 学芸員)

1980年、長岡市生まれ。北海道大学大学院環境科学院博士後期課程修了(環境科学博士)。大学時代は北海道をフィールドに北限のブナ林を研究。現在、十日町市立里山科学館 越後松之山「森の学校」キョロロ学芸員。里山の生物多様性をキーワードに教育普及、体験交流、観光や産業などの側面から、地域博物館を活用した地域づくりに挑戦中。2児の父親。
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