大学の授業で、映像制作も担当していています。今年度は、取材に出られない時期が続きました。この2月には、台湾を取材する集中講義を計画していましたが、予定していた台湾渡航は中止となり、新潟で台湾について学ぶ授業に変更しました。
県内での撮影取材にも困難はありましたが、多少活動しやすかった去年夏、学生たちは県内で映像撮影を行い、なんとか編集してコンクールに応募しました。応募作品の一つに、「ラジオ塔」をテーマにしたものがあります。ラジオリスナーの皆さんにも関心を持ってもらえたらいいかなと思い、ご紹介します。地元を「再発見」する、マイクロツーリズムの目的地にもなりそうです。
ラジオ塔というのは、1930年代に全国各地に建てられた「ラジオが流れる石塔」です。ラジオ放送は当初、受信契約を結んだ加入者しか聴けず、加入者を増やす普及啓発のために全国にたてられたのが「ラジオ塔」でした。全国各地に作られ、新潟市内には、中央区の白山公園に設置されました。公園の中の蓮池に、現在もそのままの姿で残っています。(ラジオ塔大百科2017による、長岡市にもかつて一箇所設置されていたそうです。)
白山公園のラジオ塔周辺を歩いてみると、AMラジオ放送が流れています。しかし、立ち止まって聴いている人はあまりいないように思います。そもそもこの石塔からラジオ放送が流れていることに気がついている人はどれぐらいいるのでしょう。あまりにも風景に溶け込んでいて、気に留めていてないのか、知っているけどみんな忙しく、立ち止まって聞いている人はいない…ということなのでしょうか。
全国各地に設置されていたラジオ塔のうち、現在も利用されているものは少なく、さらに、日中放送が流れているラジオ塔は、ひょっとすると新潟市の白山公園だけかもしれません。(ラジオ塔大百科2017ではそのように記述されていました)
2013年に破損したラジオ塔は、新潟市が修復して、2015年にきれいに塗装し直されました。そのタイミングで、再度ラジオが流れるようになったとか。そこで立ち止まってラジオを聞くわけではないけれども、風景に溶け込む音の風景として、新潟の人々に親しまれていて、その人々の愛着が、修復を後押ししたのかもしれません。
訪問を断念した台湾にも、台北の「二二八和平公園」に、ラジオ塔が残っています。この台北の公園の中には、戦前の日本統治時代に台北放送局が作られ、日本人が去ったあともそのまま放送局として使用されていました。そのお膝元である公園の中に、ラジオ塔が設置されました。かつてのラジオ局の建物は、現在も台北二二八記念館として残っています。二二八事件は、1947年に台湾で起きた、国民党の統治への抗議デモとその結果起こった政府による民衆弾圧です。この悲しい事件の現場に、台北のラジオ局とラジオ塔は立ち会っています。このとき、政府に抗議する群衆は、放送局を占拠し、その様子を台湾全土の人々にラジオで伝えて、抗議運動が全国に広まったとされています。もちろんその放送内容は、人々が集まる公園の中で、ラジオ塔から流れていたことでしょう。
新潟のラジオ塔は、台北のように激動の時代に立ち会った場面があったのかどうか、具体的な記録は見つかりませんでした。しかし、太平洋戦争の開戦、終戦を伝えていたとは予想できます。玉音放送の流れた8月15日、「新型爆弾」(原爆)の投下の恐れありとして、新潟県から疎開命令が出され、市民の多くが郊外に疎開しました。とすると、そのゴーストタウンになった新潟で、ラジオ塔から玉音放送を流れていたということになるのでしょうか。1964年の新潟地震のときにも、大きな被害を受けた新潟の様子を、公園で伝えていたかもしれません。
Radikoの普及、ワイドFMの登場など、ラジオをめぐる環境はさまざま変化しています。私たちや学生たちにとって、ラジオの社会的役割や期待は、ラジオ塔のあった頃とは異なっていることでしょう。電波を使って多くの人々に情報を届けてきたラジオ放送は、テレビもネットもない時代、家にラジオ受信機もなかった時代に、どんな役割を果たしてきたのか。過去に思いを馳せながら、白山公園を歩いてみると、今まで空気のような存在でしかなかった公園のラジオ放送が、少し違ったふうに聞こえてくるかもしれません。
2月13日(土)BSNラジオ 朝9時~ 「大杉りさのRcafe」で放送予定。