上越市板倉区。この地域には、おいしいそば、おいしいよもぎまんじゅう、おいしいラーメンなど、隠れた名店があるそうですね。でも今日は、この町に生まれて、のちに沖縄県宮古島で、不当な重税に苦しむ人々を救った「救世主」といわれている人物、中村十作のことを紹介します。
上越市板倉区の稲増という集落にある、集会所のような建物「稲増集落開発センター」の中に、小さな記念館が設置されています。中村十作記念館。今年、敬和学園大学の学生たちと、沖縄と新潟のことを調べていくうちに、この中村十作のことを知り、7月に板倉区を初訪問、館長の中村宏治さんにインタビューをしてきました。宮古といえば、石垣などの八重山諸島と並んで、沖縄のリゾート地でもあります。リゾートの島の歴史と、上越の農村出身の中村十作、どんな関わりがあったのでしょうか。
1637年から200年以上に渡り、琉球王国の離島、宮古・八重山には、人頭税(にんとうぜい)という過酷な税が課されてきました。この税は、所得等に関わりなく一定年齢になると穀物や織物などを収めさせるという、過酷なものでした。その税率も高く、明治期の記録では、宮古の収穫高の65%にも及んでいたといいます。過酷な税をおさめるために、奴隷のように働き続けた人々の話、税を逃れるために手足を切り落とした人々の話など、悲惨なエピソードはたくさん残されています。
宮古・八重山の人頭税は、薩摩藩に税を収めることになった琉球王朝が、先島の人々に重税を課したのが始まりといいますが、明治になってもこの制度は残り、人々には重税が課され続けました。明治政府は、琉球を沖縄県とした後にも、以前の琉球の制度・慣行などを維持し統治の安定を図った(これを「旧慣温存」といいます)とされていて、結果、この重税の仕組もそのまま残ってしまったわけです。宮古・八重山の実態が、中央政府にほとんど知られていなかったということもあるのでしょう。明治以降人頭税は、国の制度・税制とは関係なく、島の特権階級を養うためのものとして、そのまま残されていたことになります。
この不当な制度から、宮古の人々と救おうとした新潟県人が、中村十作ということになります。
上越の稲増村の名主の家に生まれた中村十作は、1892年真珠の養殖事業のために宮古島を訪ねます。その宮古島農業試験場の技師、城間正安と出会い、過酷な人頭税がいまも島民を苦しめている実態を知って憤り、人頭税廃止運動を始めます。
東京にいた弟の中村十一郎、稲増の隣村戸狩村出身の読売新聞記者だった増田義一らの支援を得て、東京で政府要人らに働きかけます(増田は新聞で、人頭税の不当さを訴える記事を書き、大きな貢献をしたといいます)。翌1893年に「人頭税廃止請願の建議」を提出し、1895年に、帝国議会で人頭税廃止が決定されます。最終的に人頭税が制度として廃止されたのは、さらに時を経て、1903年のことでした。
中村十作は、人頭税廃止のための自らの活動について多くを語ることなく、本業の真珠養殖に専念し、1943年に京都でこの世を去ります。人頭税廃止のための中村十作の働きが注目されるようになるのは、没後かなり立ってからのことでした。弟十一郎の書き残したメモが、稲増の実家の土蔵から見つかり、中村十作の旺盛なロビー活動の様子が、のちに明らかになりました。その後、地域の人々も中村十作の働きを知り、宮古との交流や顕彰活動を始めます。
現在は、「稲増集落開発センター」の記念館のほか、近くの中村十作記念公園にも、顕彰碑や人頭税石(身長を測って課税対象にするかどうかを確認した石灰岩)などが展示されています。板倉区と宮古島の小学校との交流も続いています。また今年に入って、板倉まちづくり振興会が、中村十作さんと親鸞の妻で地元ゆかりの恵信尼(えしんに)にちなんだ、ゆるキャラ「いたくらけいと」を考案したときいています。
中村十作さんは、新潟県出身の「偉人」として、たびたびとり上げられている人なのですが、私も今回はじめて知りました。不平等や不正が見逃されていた島、しかも自らの郷土から遠く離れた場所で、それらを見逃さず、粘り強く改善の努力をつづけた中村十作。板倉と宮古で、彼の足跡を訪ねつつ、グルメやリゾートの雰囲気を楽しむというのも、いずれ実現させてみたいものです。
* BSNラジオ 土曜日午前10時「立石勇生 SUNNY SIDE」の オープニングナンバーの後に「はぐくむコラム」をお伝えしています。
8月13日は、一戸信哉さんです。お楽しみに!