「中野小屋」との出会い
新潟市西区に、「中野小屋」という地名があります。私がこの地名を知ったのは、2024年2月、学生たちと沖縄を訪問したときのことでした。正直言うと、「小屋」という文字を見て、最初は地名だとは思わず、文字通り「小屋」のことを想像しました。しかし、学生たちとともに調べていく中で、この集落と戦争の関わりが浮かび上がってきました。
敬和学園大学4年生で、私のゼミに所属する宮路晴夏さんが、この「中野小屋」を題材にした映像作品『中野小屋之塔の奇跡』を制作しました。この作品は、令和6年度新潟県自作映像・視聴覚教材コンクールにおいて最優秀賞を受賞しました。本記事では、この取材を通じて明らかになった「中野小屋の塔」の背景と、それに込められた思いを紹介します。
沖縄の慰霊碑と新潟の塔
沖縄県糸満市にある沖縄県立平和祈念公園には、沖縄戦で亡くなった人々の名前が刻まれた「平和の礎」があります。また、公園内には全国各地の戦没者を弔う石碑が多く建立されており、「新潟の塔」もそのひとつです。この「新潟の塔」を知る人は少なく、そのさらに奥にある「中野小屋の塔」について知る人はほとんどいません。
2024年2月、集中講義の一環として沖縄を訪れた私は、学生たちと「新潟の塔」に足を運び、その背後にひっそりと佇む「中野小屋の塔」に目を留めました。現地で調べたところ、「中野小屋」は新潟市西区にある地名であることが分かりました。この慰霊碑は、1975年の海洋博開催の年に、新潟の農協観光の旅をきっかけに建立されたといわれています。本土復帰後の沖縄には、慰霊のために訪れる人々が多く、海洋博の時期もまた、そうした流れの中にあったのでしょう。
新潟の農村と戦争の記憶
「中野小屋」は、新潟西バイパスの曽和ICから116号線を巻方向に進んだ場所に位置しています。私自身も何度も通ったことのある地域で、2024年1月1日の能登半島地震では、家屋の倒壊や液状化の被害が多く報告された地域でもあります。
2024年6月、宮路さんと私は、沖縄の石碑に刻まれた名前を頼りに取材を進め、石碑を建立したメンバーの一人、小柳文也さんの息子・小柳一郎さんにお会いすることができました。建立当時の記録や写真、文也さんの生い立ちなどをたどることで、そこに込められた思いを聞くことができました。
文也さんは味方村(現・新潟市南区)出身で、
失われつつある慰霊の風景
取材の際、私たちは中野小屋地区を歩いてみました。そこには、個人宅に多くの戦死墓が建てられており、かつて遺族会による慰霊祭も行われていたことが分かりました。しかし、遺族の高齢化が進み、さらに能登半島地震の影響もあり、慰霊祭の継続が困難になっていると聞きました。
沖縄に慰霊塔を建てたのは、おそらく中野小屋集落だけかもしれません。しかし、新潟県内には同じように戦死墓が立つ地域が他にもあり、それぞれの地域で同様に遺族の高齢化という課題を抱えていることでしょう。戦争の記憶を風化させず、未来へと継承することは非常に重要です。それは同時に、地域の歴史や文化を保存し、次世代へ伝えることにもつながります。
記録を未来へつなぐために
私たちの身の回りには、まだ掘り起こされていない歴史が数多く眠っています。「中野小屋の塔」の取材と映像作品を通じて、新潟の農村と戦争の関わりを再認識することができました。この記録が、新たな対話と平和への願いを生む一助となることを願っています。
* BSNラジオ 土曜日午前10時「立石勇生 SUNNY SIDE」の オープニングナンバーの後に「はぐくむコラム」をお伝えしています。3月1日は、新潟市在住 敬和学園大学人文学部国際文化学科教授の一戸信哉さんです。お楽しみに!